#江戸時代 の#京都 、#大阪 ってどんな感じだったの? 価値観が違いすぎて驚きの連続! 衝撃の女性の用の足し方とは? 西と東の文化の違いがよくわかります! 【サムネイル使用画像】 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 『京の着だふれ大坂の喰だふれ江戸の呑だふれ(部分)』 【関連動画】 【う〇こがお金に】トイレの日本史【お〇っこが大根に】 🤍youtu.be/E0koxxQ_XZM 江戸の居酒屋 🤍youtu.be/lNZHyWPNNEg 江戸の文化をさらに詳しく知りたい方への オススメ書籍/ 「江戸はスゴイ 世界一幸せな人びとの浮世ぐらし」PHP研究所・著/堀口茉純 🤍amzn.to/3d6Iwvu ほーりーこと堀口茉純の 公式HP 🤍hoollii.com/ 【Twitter】 🤍twitter.com/Hoollii 【Instagram】 🤍🤍instagram.com/oedoru/?hl=ja ⚠本動画で使用しているすべての画像、イラストの無断使用・転載を禁止します #江戸 #歴史 #京都 #大阪 #上方 #お酒 #おしゃれ #グルメ #お江戸ル #ほーりー #ほぼほぼ5分でわかる江戸のなんちゃら
ほ〜り〜さま🥰
作家の司馬遼太郎さんは、船場の大阪人は夜食は里芋の煮っころがしや焼き筍を食べて貧相の食事でした、と記しておりましたね。 大阪の豪壮な食い倒れ文化等は何処にもありませんでした🙇
昭和30年から40年代末まで田舎でも街中でも立しょんする女性は珍しくなく、可愛い少女だろうが大人の女性デモ・・ペロッとしてすまし顔で行き過ぎる…
温泉町でしたから和服姿の女性は、祖入れが一番安心でしゃがみ込むのは危険半立ちだから襲われそうになったr走って逃げられる・・・VVVV
ネタじゃないから。余りにも普通にスッから、おかしいことって思わなかった子供だし別に他意はないから・・・
それが。。。金髪の女性もするってその時代初めて知った、むしろ外人さんは、高いヒールがかえって視野透か田んでしょうよ、長いロングドレスで捲し上げるって、ナイナイ
たった、200年とか300年前でも、庶民の生活の記録ってどこの国でもなかなか残ってないんですよね。日本は江戸時代が平和だったのでかなり残っている方だと思います。
よくご存じでいらっしゃる。楽しいですね。
文化の違いに触れることが出来るから旅は楽しいですね。
京の着だおれ、大坂の食いだおれ、で、江戸の粋だおれ って聞いたことある
夜鳴きそばが16文、夜鷹を買うのが24文だったそうな。
コスパ命は江戸時代から変わらんのか😊
だから東京人は「待て」ができへんのか🤣
あとケチくさいし痩せ我慢が好きなんも江戸のせいか(笑)
200年以上も価値観が違うかったらそらアカンわ😂
上方は江戸時代だけだと収まらない難しいですね江戸も上方風の言葉(なんじゃ、ぬ)江戸で武家も上方語スタンダード的伝統的として使われていますねなぜか上方大阪の 船場言葉
イメージで実際大阪は摂津河内泉州で言葉違う 港が発展した大阪なんで あと 京都や堺
町衆文化ですね
武士なんかも畿内の京武者源氏 武門の清和源氏も摂津
武士が関東江戸 商人関西
ステレオタイプなりがちで
大阪はいろんな顔がある歴史ですね1400年ありますね。
士農工商でお江戸は武士の街、二本差しが当たらない様に左側通行、上方は商人の街、品物を右手で大切に持ち歩く為右側通行、現在もそれは変わらない、江戸時代は全てが士農工商による世界観商人の街上方はお江戸から見たら変わった風習の街だったのでしょうか、
『儲かりまっか?ぼちぼちでんなぁ』なんてお江戸ではとんとかかねぇ挨拶だぜ
僕も東京と大阪、どちらも10年くらい住んだことがあるんですが、大阪の方が小さいながら地域ごとの文化の違いがハッキリしてますね。歴史もそうでしょうが、侍が少なく庶民が中心、しかも町によって住んでる階層も違ったので、少し移動するだけで言葉も文化も違うという面白い地域になったんだと思います。
東京、大阪、両地域共にだんだん似たような雰囲気になり、文化のキツさ(濃さ)がなくなってしまっているのが何とも残念です。
江戸時代は酒をよく飲んでいたのではなく、25〜26年前まで、仕事中、運転前、運転中、仕事後1日中飲んでたと思いますよ!
TVの過剰な報道により現代は晩酌か週1〜月1まで無くなってしまいましたね。
0.数%の安全の為に経済的にも大打撃を受けたように思います。
当時と比較してもモラルは良くなってますが!
江戸時代は本当に無駄がなく、私自身見習いたいと思います。
大阪は1400年の歴史で首都 難波宮がある 自治都市の時代 渡辺党の時代もありますね 難波宮は大化の改心が行なわれました 畿内の大坂は商人の都市だけではないんですね 江戸前期は元禄までは上方文化が移入されています 上方の文化 上方語や京阪語は
江戸でも影響がありました。
高知県の過疎地という西の文化圏出身です。
大学時代、東京に行ってびっくりしたことが山ほどありました。どんぶりに生卵を入れて納豆を入れぐちゃぐちゃに醤油をかけたのを「うめー!」という寮の同輩たちを見て「こんな粘った臭いものをよぉ食えるもんじゃ・・・」と絶句したことを今でも覚えてます。
極端な意見になるかもですが、150年前に西の隅っこのふるさとから岩崎弥太郎やらが出ていって西欧化してみんな澄ました顔しているのが今の東京のように思えます。
東京にいた頃、カルチャーショックで「もう、山奥に、いにたい(帰りたい)のぉ。東京人は怖いぜお!」と思ってそれを江戸っ子に話すとすごく気さくで竹を割った性格だったのに驚き意外な親近感を感じました。多摩地域の大学だったので、都心に出て必ず行くのが新宿駅。人を踏みつけてでも先を急ぐ東京人を見て恐怖すら感じましたが、彼いわく、「まぁ、江戸を東京にしたのは、君らの先祖だよ。三菱だってさー、弥太郎は君と同じ土佐人だったんだよ。丸の内の二束三文の土地を買い占めてさー・・・」というのを聞いて、物の見方が変わった気がしました。
ちなみに、大学時代は隅田川を一度も渡ったことがありませんでした。こっちに帰り役所勤めをし始めお金に余裕ができてから隅田川近辺に行きました。
「この辺を知ってたら、東京をあれほど嫌わなくて済んだのに・・・」と後悔したことでした。
東京嫌いの江戸大好きな西の人間のぼやきでした。
「目に青葉」ではありません。「目には青葉」です。
この著名な句は上五の字余りが印象的ですが、なぜ、素堂がわざわざ字余りとなる「には」としたのかの理解は文学的素養にかかわるだけでなく、この句をもてはやした江戸人たちの言語感覚を知る上でも肝になるところではないでしょうか。
たとえば、きっちりとした575ではなく、ちょこっと規則から外れたところが鉄火肌の江戸っ子たちの気性に合っていたとも言えるのかもしれません。
「目には青葉」でなければこの句の価値は大幅に低減してしまいそうです。
東海道の解説を53次で是非やって欲しいと思います。
江戸庶民の生活が大好きですけど、当時の時代背景も楽しいですね。
兵庫県北部の但馬出身者ですが、祖父が「昔は近所のおばちゃんが着物をたくし上げて立ちしょんしていたけど、今の時代だと考えられない」と笑いながら話していました
可愛い姐ちゃん、立ち小便..... 本当だったんだ。
女性が立ったまま要を足す⁉️
田舎の婆ちゃんがやってましたね~😃
尻捲って前屈みでじゃ~❗てな具合で🤭